シンガポールの初代首相、リークアンユー。
小さな漁村だったシンガポールをわずか50年弱で
世界に誇れる豊かな国に創り上げた人物です。
琵琶湖と同じ大きさ、東京23区と同じくらいの
大きさでしかないシンガポールが、現在では一人
あたりのGDPがアジア1位という成長を遂げています。
これはリークアンユーが基盤を作り上げ成長させた
ことにより成し遂げたものです。
彼の生きた91年とその功績の偉大さ、生い立ちから
生涯までを調べてみました。
シンガプーラからシンガポールへ
シンガポールは、東南アジアの真ん中に
位置する小さな国です。
大きさは琵琶湖と同じくらい、東京23区と
同じくらいと言われています。
現在は埋め立てにより、さらに土地が拡大し
日本で言うと奄美大島とほぼ同じくらいの
大きさの島国です。
シンガポールは都市国家で、1つの都市が
国家を成している珍しい国です。
経済に強く、一人あたりのGDPは50,000ドルを
超えており、日本を上回っています。
建物一つをとっても時代の先を一歩先行く
近代的なものが特徴的で、経済発展を遂げる中で
生まれたものです。
そんなシンガポールの歴史を簡単にまとめてみました。
はるか昔3世紀頃、まだシンガポールという名はなく
中国の文献によると「半島の先端にある島」という
意味のプ・ルオ・チュンと呼ばれていました。
シュリーヴィジャヤ王国の勢力下、7世紀頃からは
「海の町」という意味のテマセックとして知られていました。
14世紀の終わりごろ、「ライオンの町」を意味する
シンガプーラという名に改められます。
この由来は、シュリーヴィジャヤ王国の王子が、狩りに
出かけた際に動物をライオンと見間違えたという説や、「シンガ」
が寄港を意味するので単に寄港地という名称とする説と、諸説あります。
そして大航海時代を迎え、ヨーロッパ人は続々と
アジアへ進出します。
16世紀頃までに、マジャパヒト王国、マラッカ王国、ジョホール王国と
順番に支配され、ポルトガルやオランダと提携したり、戦ったりしています。
これにより、現地住人の多くが虐殺されシンガプーラは
壊滅状態になります。
18世紀頃、シンガプーラの人口はわずか150人程度でしたが
イギリス東インド会社で書記官を務めていたトーマス・ラッフルズが
上陸してきます。
ラッフルズは、ただの漁村と成り果ててしまった小さな
シンガプーラに、貿易港としての可能性を見出します。
そして、当時シンガプーラを支配していたジョホール王国より
商館建設の許可を取り付けました。
ここで国の名称を英語風のシンガポールと改め、都市化計画を
推し進めることになります。
トーマス・ラッフルズはシンガポールの開発に尽力します。
この名残で今もホテルなどラッフルズの名前が使われています。
その後はイギリスの植民地ではあるものの、無関税の
自由港政策を推し進めたこともあり、急速に発展していき
人工、労働力ともに発展していきました。
しかし経済発展の裏には、悲惨な奴隷支配もありました。
20世紀になってからは、シンガポールも独立に向けての
声が大きくなり、イギリス側は、半英活動家に対して徹底的に
取締や弾圧を行います。
この時、逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの
弁護を引き受けたのが、のちの初代首相のリークアンユーでした。
リークアンユーの生い立ち~
リークアンユーが生まれたのは1923年9月16日。
日本では大正12年です。
客家系華人の4世として、英国植民地だった
シンガポールで生まれました。
5人兄弟の長男です。
父からクアンユー(光耀)の華名とともにHarryという
英語名も授けられ、家族や友人からは”Harry”と呼ばれ
親しまれていました。
父は外資系企業に勤務していて、一族すべてが
祖父の代から英語教育を受けていて、家族は英語と
マレー語で会話してました。
幼少期には中国語が話せず、マレー人の友人の
ほうが多かったそうです。
テロク・クラウ小学校、ラッフルズ学院と経て
ラッフルズ大学で学んでいましたが、1941年に
太平洋戦争が勃発。
日本軍によるシンガポール占領と、イギリス植民地
政府の崩壊に伴って大学は閉鎖され、学業は中断
せざるを得なくなります。
その間、リークアンユーは様々な職業に就いています。
祖父の友人の日本人が経営していた繊維会社で
タイピストとして1年半従事。
その後、日本語と中国語を学び始め、1943年から
1944年までの間に日本側と協議して、昭南特別市の
報道部に置いて、連合国の通信を盗聴した内容を
翻訳する業務に携わっていました。
タピオカを利用して作った”スティックファス“という
接着剤を闇市で売っていたこともあります。
シンガポールの住民たちが独立を望む声が大きく
なっていったのはこの頃です。
これまで様々な国に占領され、特に自分たちを乱暴に
扱うイギリス人や、日本人に対し疑問を感じ、自分たちの
国は自分たちで統治するべきだという感情が芽生え始めます。
リークアンユーは戦後の1946年、再び学問を学ぶため
イギリスへと留学します。
ケンブリッジ大学のフィッツウィリアムカレッジで
法律学を専攻し、1949年に首席で卒業します。
この大学で元々知り合では合ったマレーシア出身の
華人であるクワ・ゲオ・チューと親密な関係になり
1950年に帰国後、すぐ結婚します。
その後は短期間であるものの、ロンドン・スクール
オブ・エコノミクスにも通い、帰国後は弁護士資格を
取得します。
妻とともに、“Laycock and Ong”という法律事務所に
勤務しました。
ここに務めていた上司のジョン・レイコックが
親英政党・進歩党の候補者として選挙に立候補します。
リークアンユーは、その運動員を努めたことを
きっかけに、政治的な経歴を歩むことになります。
党が、特に華人からの支持を得られないことに
将来性のなさを直感します。
独立運動で植民地政府に弾圧された労働組合や
学生自治会の法律顧問として雇われていた際、積極的に
弁護を引き受けます。
華人系の住民と特に繋がりをもつようになり、信頼関係を
築き上げ、労働組合の運動指導者にまでなります。
1954年には、1500人以上の出席者を前に「人民行動党」
(PAP)の結成を宣言します。
1955年の立法議会選挙では住民の一部に選挙権を
制限した制限選挙でしたが、初当選します。
1957年頃、イギリスの支配が弱まる中、マレーシアが
英国から独立し、初代首相にトゥンク・アブドゥル
ラーマンが就任します。
ラーマンは後にリークアンユーの盟友ともなる人物です。
同年のシンガポール市議会の選挙で、リークアンユーの
立ち上げた人民行動党は第一党となり、オン・エングェンが
市長に就任されます。
これまでの政府にはびこっていた汚職を一掃し、市庁舎前の
エリザベス女王の銅像を撤去したり、華人が望んでいた屋台
営業の自由化、郊外のマレー人集落に水道を敷くなどして
人気を集めます。
1959年の総選挙では51議席中、人民行動党が43議席を
獲得して圧勝します。
リークアンユーは、イギリス統治下で外交・防衛以外の
権限を持ったシンガポール自治州首相となりました。
この時まだ35歳だったそうです。
シンガポールの完全独立を目指し、すべてを
背負うことになります。
シンガポールの日本植民地時代の闇
日本がシンガポールを占領したのは、1942年のことです。
約3年の間、日本の統治時代を迎えることになりました。
イギリス本国はナチス・ドイツと戦闘状態でほとんどの
兵士はヨーロッパ戦線に投入されていました。
放り出されたシンガポールに日本がやってきて
占領されてしまいます。
シンガポールは昭南島(しょうなんとう)と、名前を
変えられてしまいます。
日本は、シンガポールに住む中国人を集め、SookChingと
呼ばれる華僑虐殺事件を引き起こしました。
「抗日分子」とそうでない者が適当に分けられ
「抗日分子」と思われる男性はすべて処刑されました。
トラック2台に、後ろ手に縛られた華人約70人が
乗せられ、海岸の波打ち際へと連れて行きます。
二列に並ばされた後、日本軍による一斉射撃が
行われ容赦のない虐殺が行われました。
その人数は文書がないので正式な殺害数は不明では
あるものの、日本の公式見解では5千人、新聞記者の
証言では約2万5千人とも言われています。
リークアンユーもこれに巻き込まれますが
すんでのところで逃れています。
日本軍は殺害した華僑の人の首を、トラックの
荷台のすみずみに置いて見せしめにしていたといいます。
子供に対しても背後から銃剣で突き刺し、頭を殴って
刺殺したり、気に入らないことがあれば首を切り落とす
といった酷い殺害方法をとっていました。
空中に放り投げた人に対して剣を突き刺したり、女性を犯し
一日中木にくくりつけるなど、シンガポール人にとっては
不安で恐ろしい日々が続きました。
シンガポール人の独立への思いは、日本軍による占領で
決定的な決意へと変わりました。
日本軍による占領期間は「シンガポールの近代史で最も暗黒の年」
とシンガポール国立公文書が位置づけています。
日本が降伏した1945年以降、入れ替わりに戻ってきた
イギリスにまたも植民地支配が継続します。
しかし、もちろんシンガポールの独立運動も
激化していきます。
イギリスも第二次世界大戦で大きなダメージを受けており
本国から離れているシンガポールを管理できない状態になります。
マレー人とチャイナ人の気の強さをまとめた男
リークアンユーは、「シンガポールだけで独立は無理」
と思っており、イギリスからの独立と、マラヤ連邦との
合併を目指して交渉を進めていました。
マラヤ連邦のラーマン首相は、シンガポールやサバ
サラワク、ブルネイといったイギリス植民地と合併して
「マレーシア連邦」を結成する構想を持っていました。
どちらも目標は同じ方向に向いていたため、協議の結果
合併案がまとめられました。
1950年以降、マレー半島内の一部がマラヤ連邦になり
1963年にはシンガポールも含めマレーシア連邦になりました。
しかし、マレー系が多く、マレー人優遇政策を採ろうとする
マレーシア中央政府と、中国系が多く、華僑の人口が大半を
占めマレーと華人の平等政策を進めようとするシンガポール。
両国は民族構成や思想の違いから対立してしまいます。
マレーシア連邦首相のラーマンと、シンガポール人民行動党の
リークアンユーは、両者の融和は不可能と判断します。
そうしてシンガポールは、1965年8月9日にマレーシア連邦から
追放される形で都市国家として完全独立してしまいました。
資源に恵まれているわけでもない、更地同然の小さな島国と
住民、あらゆる権利をすべて任されたリークアンユーは、当時
41歳です。
どんな思いだったのでしょう。
会見の際には
「私には、これは苦悶の瞬間である。これまでの私の人生、とりわけ政治家になって以降、私はマレーシアとシンガポールの合併と統一を固く確信し、そのために行動してきた。両国は、地理的にも経済的にも社会的にも一つになるのが自然だからである。それなのに、私があれほど信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまったのだ……」
と語り、昂ぶって涙する姿も見られました。
ここからリークアンユーの見事な手腕で、多数派の華人に
マレー系、インド系からなるシンガポールをまとめあげていきます。
リークアンユーの生涯
リークアンユーは、ストレスからか不眠症に
悩まされ続け、独立直後は病に倒れたことも
あったといいます。
すべてを背負ったリークアンユーですが、様々な
政策を実施し、シンガポールを成長させていきます。
まず、他民族の母語を公用語として認める一方で
共通語として学校教育はすべて英語で行う言語政策を
進めました。
その為、現在のシンガポールの公用語は英語、マレー語
中国語、タミル語の4つが使われています。国語はマレー語です。
シンガポールは資源が少なかった為、外国資本の
工業化政策を進めました。
アジア各国へのアクセスの良さ、無関税の自由港で
あった背景から国際的な貿易・金融市場を大幅に
発展させることに成功します。
独立後から30年の間で急速に経済発展、平均で10%の
年間経済成長率を達成しています。
370万人の国民の一人あたり国民所得は欧州の
多くの国々を上回りました。
リークアンユーは特に、経済開発を最優先し、時には
「独裁」と批判を浴びることもありましたが、資源の
少ない小さな国を大きく育てたことから「建国の父」
と呼ばれています。
また、リークアンユーは、汚職を嫌っており、清廉な
政治体制を貫かなければならないと認識していました。
汚職調査局 (CPIB) を設置して、逮捕の実行、捜査
告発者との連携、容疑者に対する銀行口座や所得税申告の
調査などを実施。
シンガポールの官僚はほとんど汚職に手を
染めてないことも有名です。
世帯の90%が持ち家を所有し、税金も高くなく
ホームレスやスラム街もありません。
町をきれいに維持するため、ゴミのポイ捨て禁止
ガムの所持も禁止という国民の意識改革も行っています。
東南アジアのスイス、明るい北朝鮮などと呼ばれる
シンガポールですがまさにそのとおりです。
観光立国としての計画も進められ、これもシンガポール
にとって重要な外貨獲得手段の一つになりました。
国内にカジノなど外資系の巨大資本を入れ、近年
シンガポールではマリーナベイサンズホテルなど
トレードマークとも言えるホテルを建てるなどしています。
その後、1990年に首相を退任します。
首相を辞任後も、後のゴー・チョクトン政権の
上級相と、リー・シェンロン政権の内閣顧問と
務めるなどして、晩年までシンガポールに大きな
影響力を保っています。
2011年には官僚ポストから退く意向を表明します。
2015年に2月15日から肺炎を患い入院します。
その後、感染症により容態が悪化したことが
3月17日に報じられました。
2015年3月23日、シンガポール首相府から死去の
発表がされました。91歳でした。
29日に国葬が行われましたが、多くの国の
首脳が参列しました。
日本からは安倍晋三首相も参列しています。
シンガポールに住む何万人もの民衆も、通りに立って
リークアンユー元首相を見送りました。
おわりに
今では日本からの超富裕層が税金逃れで移住を望む国シンガポール。その国を一人の男が建設したのです。リークアンユーの事を知らない人も多いですが、「建国の父」と呼ばれたリークアンユーがいなければ、アジアのハブと言われる経済大国にはなっていなかったでしょうし、放り出された小さな島国のままだったかもしれません。
独立後の何もない小さな島国をあらゆる面でクリーンにしていきました。
現在でもその業績は褒め称えられ、様々な人物に影響を与えています。
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