東条英機の生い立ち~何をした?最後の言葉や子孫の現在とは

この記事は6分で読めます

東条英機アイキャッチ

1941年、太平洋戦争の開戦に際し、首相兼陸軍大臣として日本を指揮した東条英機。彼の率いた日本軍は敗戦に向かい、戦後、東條は東京裁判で「A級戦犯」の罪に問われました。

彼は結局絞首刑にあいましたが、東条英機は何をした人なのか、その遺言や彼の影響を受けた子孫の行方が話題になっています。

東条英機の生い立ち、何をした人かや最後の言葉、子孫の現在についてまとめてみました。

Sponsored Link

東条英機プロフィール

氏名:東条英機(とうじょう ひでき)
出身地:東京市麹町区(現・千代田区)
生年月日:1884年7月30日
死亡年月日:1948年12月23日(享年64歳)

東条英機は、太平洋戦争を前に、アメリカとの交渉にあたった首相、陸軍大臣。戦後、A級戦犯の罪で絞首刑となりました。

東条英機の生い立ち

東条英機は、1884年東京市麹町区(現・千代田区)で、陸軍歩兵中尉・東条英教(ひでのり)の三男として生まれます。

長男と次男は幼くして亡くなっており、東條は実質長男の扱いで育てられたそうです。

父・英教は陸軍大学を首席で卒業したエリート軍人であり、夢は陸軍大将になることでしたが思うように出世できず中将止まりだったようです。

東条英機は、陸軍幼年学校入学時の成績は中くらいでそれほど良いとはいえなかったといいますが、努力の人だったらしく、22歳で陸軍士官学校を卒業するころには、360人中10番目という上位の成績を修めたそうです。

士官学校卒業後は少尉、中尉と順調にキャリアを積んでいき、父の希望もあって陸軍大学を受験しますが、苦戦し3度も受験して合格を果たしています。

東条は陸軍大学卒業後、昭和12(1937)年関東軍参謀長、翌年陸軍次官となり、能吏ぶりを発揮して「かみそり東条」といわれました。

その後も航空総監兼航空本部長を経て、15年第2次、第3次近衛内閣の陸相、16年には近衛文麿に代わって首相に就任し、陸相、内相を兼任しました。

東条英機は何をした人

日本史上では戦犯として不名誉にも名前の知られている東条英機ですが、何をした人なのでしょうか。

東条英機は旧日本陸軍大将で、戦前の1941~1944年に日本の首相を務めました。日本の領土拡大や欧米の植民地への先制攻撃を訴え、アメリカを第2次世界大戦に引きこんだ真珠湾攻撃、東南アジアや太平洋諸国への侵攻に携わっています。

対米英戦での初期の作戦成功を背景に、東条の独裁的な戦時体制が強化されました。それからの後の日本不利の戦局悪化に伴い、登場に重臣内部の批判が高まり、1944年には昭和天皇からの支持も失い辞任します。

日本は1945年、広島と長崎への原爆投下を経て無条件降伏するところとなり、東条は米軍による逮捕直前に自宅で拳銃自殺を図ったものの、失敗に終わっています。

東条英機は、極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となり、その生涯を閉じました。

東条英機は戦後、太平洋戦争の遂行責任者としてA級戦犯容疑で起訴され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた人物であるということがわかります。

東条英機が戦犯とされた訳

東条英機は、非常に頭の回転が速く、優秀な仕事ぶりで「カミソリ」とあだ名されたそうですが、彼が戦犯とされた訳は何だったのでしょうか。

東条英機は、当時近衛文麿内閣の陸相として入閣するも、対米開戦をとなえて近衛とぶつかり、内閣を崩壊させたといいます。その後、自ら内閣を組織した東条は、米英との開戦に踏み切り、戦争のきっかけを作りました。

東条は戦時中、憲兵隊を用いて反対勢力を抑制するなど、独裁的な体制を築き上げ、官職をいくつも兼任し内閣の権利を独占し、無謀な行動に国民からも非難を浴びました。

戦争で敗色が濃くなると、東条に対する不満が噴出しついに首相を辞職に追い込まれました。

その後1948年11月に、他国に侵攻し、捕虜を非人道的に扱う指示を出したなどの戦争犯罪で有罪となり、絞首刑による死刑が確定しました。

65歳で荼毘に付された東条英機ですが、その遺骨は政治的な理由で飛行機で太平洋に散骨されたといわれています。(「東京新聞」1996年8月10日)

戦犯刑死者の遺骨は遺族に返還されないもののようですが、なぜそれを散骨したかというと、「戦犯たちの骨が後の日本人から英雄視され、崇拝の対象となることに、GHQが大きな危惧を抱いた」(WEB 歴史街道)と考えられているようです。

開戦を主導する大きな原動力だった東条の存在は、相手にとって常に脅威であったといえるでしょう。

Sponsored Link

東条英機の最期の言葉

東條英機の最期の言葉が残っており、複数存在するといわれています。

●家族に宛てたもの(Wikipedia)(1945年9月3日)

以下のように長男英隆に宛てたものが残っており、東條直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男輝雄など親族にあてたものが複数存在するとされています。

昭和二十年九月三日予め認む

一、父は茲に大義のため自決す、
二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず
2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし
4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ
三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし(Wikipedia:引用)

●1945年9月11日連合軍に逮捕される前に書かれたもの(口頭で聞き取ったものと言われる)(Wikipedia)

《日本青年諸君に告げる。》 我が日本は神国である。 この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。 私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。(中略)
諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。(中略)諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。(Wikipedia:引用)

●処刑を前にした時のもの(Wikipedia:引用)

今回の処刑は個人的には慰められるところがあるが、国内的の自分の責任は、死を持って償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ、同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。天皇陛下および国民に対して深くお詫びする。(中略)現在の日本を事実上統治する米国人に一言する。どうか日本人の米国に対する心持を離れざるように願いたい。(中略)戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。
我ゆくも またこの土に 帰りこん 国に報ゆる事の足らねば— 東条英機大将 遺言(部分)昭和23年12月22日夜 東京巣鴨(23日零時刑執行)

東条は子をもつ父親として家族を思い、日本の国を愛する気持ちの強い人だったことや、国民や天皇陛下に謝罪し未来の日本に思いを巡らす広い心の持ち主ではなかったかと想像できます。

東条英機の子孫の現在

東条英機の子孫の現在はどうなっているのでしょうか。

東条は妻・かつ子とのあいだに3男4女、7人の子どもを儲けました。

このうち次男以下の子どもたちは、1945年の敗戦を受け、分家、または嫁に出すなどして、英機によって籍が外されているそうです。戦犯の子として被害を被ることを心配したのでしょう。

東条の子7人についてみると

東条英隆(長男)
戦前は満州国警務部、鴨緑江発電職員として従事。父とは疎遠な関係。
戦後、競艇を主催する「日本船舶振興会」に務める。

東条輝雄(次男)
学生時代から数学を好み、父から飛行機技師になることを勧められる。
戦時中は日本海軍の艦上戦闘機・零戦、戦後は日本初の国産旅客機YS-11などの設計に携わった。
のちに「三菱重工」の副社長、「三菱自動車」の社長、会長となる。

東条敏夫(三男)
陸軍士官学校在学中に終戦。
戦後は航空自衛隊に入隊し、空将補(少将)まで昇進。

杉山光枝(長女)
陸軍軍人の杉山茂と結婚。

田村満喜枝(次女)
前夫の古賀秀正陸軍少佐は、降伏反対のクーデターに巻き込まれ自害。
のちに社会学者の田村健二と結婚する。
自身は家庭裁判所の調停員。

鷹森幸枝(三女)
映画監督の鷹森立一と結婚。
☆キミエ・ギルバートソン(四女)
アメリカ人実業家のデニス・ルロイ・ギルバートソンと結婚。

東条英機は子孫たちに向け、戦後100年は自分の名前を出さないよう命じていたといいます。戦犯の子孫として辛い目に遭ってはならないと考えたのでしょう。

他に、2013年、73歳で亡くなった長男英隆の娘・由布子さんも有名で、『祖父東条英機「一切語るなかれ」』、『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』など、英機に関する著書を多数出版し、保守派のコメンテーターとして、テレビ番組への出演経験も多々あるそうです。

晩年は沖縄など戦場となった土地へ出向き、戦死者の遺骨の収拾活動にも尽力されました。

英機のひ孫(英機の長男・英隆の英勝の子)にあたる東條英利さんは、神社などの日本文化を紹介するコミュニティーサイト「神社人」の運営や、日本の伝統文化を広める目的で全国で講演などを行う国際教養振興協会の主催を行っておられます。

日本文化を広める活動に尽力し、活躍しています。

Sponsored Link

おわりに

太平洋戦争開戦に大きな働きをしたとされる東条英機は、旧日本軍陸軍大将で首相も務めた人物で、その独裁と強引な手法が非難され、A級戦犯として絞首刑となり歴史に名を残すことになりました。東条の最期の言葉の数々が残されており、彼が一軍人として戦後の日本に思いを馳せる様や、周囲に対する責任をも詫びる潔さが表現されています。
戦犯だった東条の子孫は、複雑な環境であったと思われますがそれぞれの生活に入り、社会において新たな活動を行ってきたことがわかります。


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事

  1. プーチン大統領アイキャッチ
  2. 玉城デニーアイキャッチ
  3. サンナマリンアイキャッチ
  4. 田中角栄アイキャッチ
  5. アントニオ猪木アイキャッチー.
  6. オバマ大統領アイキャッチー
  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。