細木数子の生い立ち~売春業から愛人ヤクザ島倉千代子の骨の髄まで

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細木数子アイキャッチ

数年前まではタレントとしても飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍されていた細木数子。

六星占術などで有名になった細木数子、実は戦後日本を生き抜くために磨いた手腕やその生い立ちには、壮絶な幼少期から思春期を過ごしていたと噂になっています。

ヤクザ紛いな活動も辞さなかったと言われる細木数子の、想定外に壮絶な過去やそれらの犠牲となった有名人で骨の髄まで吸い尽くされたと言われる島倉千代子との因縁と関係などを追ってみようと思います。

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細木数子の生い立ち~愛人の子として

 

細木数子といえば、占術家で作家やタレントとしても活動していましたが、一番強いイメージとしては、やはり占いの人と捉えてる人が多いと思います。

 
細木数子は1938年に東京都渋谷区で生まれます。
 
細木数子の父親は細木之伴と言い、政治活動を行っていたようです。

父親の許には、政治家大野伴睦や、暴力団関係者なども出入りしており、幅広い人脈があったといいます。

 
父親に暴力団関係者などとの交流があるのと同様に、母親にもまた同じような関係者との繋がりがあったとも言われています。

 
噂によれば、姉の一人は暴力団幹部の妻であるとか。

 
また弟は細木久慶と言い、千葉県議員を恐喝したとして有罪判決を貰い、さらにJBAの会長を務めていた時代パソコンを使ったマルチ詐欺事件を起こし起訴されています。

そして2006年1月には詐欺容疑で逮捕されているとのこと。

 
父親の之伴は、太平洋戦争が始まるころには政治活動から身を引き、「ロマンスクラブ」という名のカフェを始めたといいます。

その之伴も細木数子が7歳の頃に病死したようです。

 
母親「みつ」は父親の之伴には3番目の妻という事だったようです。

2番目の妻(正妻)との間には子供が居なかった間に「みつ」との間に出来た細木数子達は、今で言えば愛人の子供という事のようですね。

細木数子は中学1年で売春稼業に身を染めた

 

父親が亡くなった後に店の名を「娘茶屋」に変え母「みつ」らと営業していたそうですが、娘茶屋は当時から公然と売春の青線化をしていた店として有名でした。

1951年当時細木数子はまだ中学1年生ですが、既に店で接客していたそうです。

それどころか渋谷で夜10時には決まって客引きを行っていたとのこと。

「娘茶屋」は、女給が常時5-6人待機し、そこに客引きした客を飲ませながら自主交渉行い、交渉成立すれば隣に作っていた連れ込み旅館『筑波』に連れ出すというシステムだったそうです。

 
後にこの時代の思い出話…にしては、ちょっと激しい内容の発言をしたことがあります。

関西テレビの番組で

「売春宿をやってたの。ヒロポン打ったりして女の子逃がさないように」との発言です。

この時期は太平洋戦争前後であり、日本でヒロポンも合法販売されていた時期です。

それにテレビ出演時も当時から40年以上経っていたため時効ではあるとのことですが、売春もヒロポンもご法度な時代になってからの発言は、周囲も随分驚いたのではないでしょうか。

それにしても、やっぱり只者ではなかったのですね・・・

大昔の過去とは言えエピソードが凄すぎます・・・汗

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細木数子の飲み屋歴と愛人

 

その後、細木数子は16歳の頃に、ミス渋谷に選ばれるほどの器量良しとの事で1955年の17歳時には東京駅の高架下に「ポニー」というスタンドコーヒー店をオープンしています。

成徳女子高等学校時代には宝塚音楽学校に合格したそうですが、それを蹴り、3年生の頃には成徳女子も中退して水商売の道へと進みます。

 
その「ポニー」も半年ほどで店を売却し、そのお金で新橋にクラブ「潤」をオープン。

そしてまたその「潤」も翌年売却します。

 
そして1958年の二十歳の頃に銀座でクラブ「かずさ」をオープンさせます。

 
十代から店を経営し、その利益と売却金を駆使して二十歳で、銀座クラブを持つというのは、凄まじい手腕と言えるのではないでしょうか。

前述した爆弾発言を考えれば、どんな手腕だったのかは気になりますけどね…。

合法意外な事もバシバシやってたっぽくて恐ろしいです。汗

細木数子が女ヤクザと言われた理由と島倉千代子

 

細木数子と歌手で既に亡くなっている島倉千代子と言えば借金肩代わりの話が挙がります。

 
とにかく男運が悪いのか男を見る目が無いのかという島倉千代子。

きっかけは最初の旦那であった野球選手が作った借金が最初と言われていますが、これが当時のお金でも8,000万円。

 
離婚協議でさんざん揉めた島倉千代子に目を付けたのが、目の怪我が元で知り合ったという眼科医の守谷という曲者です。

この守谷と元旦那の連帯保証人になったことで膨れ上がった借金額が、13億円とも15億円とも言われていました。

 
この借金を処理したのが、当時クラブ「艶歌」を経営していた細木数子だったそうです。

 
その時の様子を記した記事がありました。

 
1977年、細木数子は債権者をクラブ「艶歌」に集め

「テーブル上に3億円を置いて、“あんたはいくら貸したんだ”“実際に借りたカネより膨らんでいるじゃないか”と詰め寄り、実際に借りた金なら払えると言って、手形とはいえ13億円にまで膨らんでいた借金を3億円でチャラにしたんです。こうして千代子の債権者は細木になり、興行権も彼女に移ったのです」

 
ということがあったようです。
 

当時の細木数子は、新宿の小金井一家二率界の梶尾会長の夫人だったと言われています。

そして借金の肩代わりに「島倉千代子の興行権」を手に入れた細木数子は、すぐに芸能プロダクションを設立。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子歌手だった島倉千代子に写真集、キャバレー回り、レコード収入舞台収入など相当な稼ぎだったそうですがそれらを、ほぼ自らの懐に入れたといわれています。

 
売れっ子歌手が馬車馬のように働いても、借金は増えていったという話もあります。

 
溝口敦著『細木数子 魔女の履歴書』講談社によれば、

「細木自身は島倉の負債額について、二億四〇〇〇万円、四億三〇〇〇万円、一六億円、一三億円、十二億円と、そのときどきで言い分を変えている」

「島倉に聞こうにも、彼女は細木のロボット同然で、負債額がいくらか把握していない」と綴っています。

 
その収入状況からは必死で働いたなら1年で返済できると言われた金額だったはずですが、島倉千代子はヤクザから守ってくれた細木の事を「細木のママ」と慕っていたと言います。

 
その頼って来ていた島倉千代子を、とことんしゃぶりつくしたという細木数子が、女ヤクザそのものと言われるのも無理らしからぬことだと思われます。

強烈過ぎるエピソードにただただ想像以上にエグイエピソードに仰天しています。汗

恐ろしい・・・

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追記です>
2021年11月8日、細木数子さんが永眠されたとのニュースが娘のかおりさんの発信で明らかになりました。

83歳と想像より早くのお別れになりましたが、奇しくも2013年11月8日にお亡くなりになられた島倉千代子さんと同じ日にお亡くなりになったとのこと奇遇に感じてしまいます。ご冥福をお祈りします。

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おわりに

敗戦直後の混乱期の日本をしたたかに生き延びるためだっただろう手腕を、現代にまで磨き続け、振るい続けて来たように思える細木数子。ヤクザな人だという評価も解らなくもないですよね。やり手という言い方では少し善良に優しすぎる感じがします。そのくらいがっつりやらないとあれだけの知名度を持つ成功者として生きていけない時代、世界と言うのは、中々想像しづらいですね…。現代の(表面的だとしても)平和な日本で良かったと思ってしまいます。晩年になった今彼女は何を思っているのでしょう・・・


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