中島誠之助の生い立ち~両親の死後育てて愛してくれた養母の別れ

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中島誠之助アイキャッチ

「なんでも鑑定団」の「いい仕事してますね」の
殺し文句?がキメ台詞の古美術鑑定家でもあり
タレントとしても活躍されている中島誠之助さん。

現在80歳の中島誠之助さんは昭和初期の戦前
生まれです。

いかにも上品な着物姿がお似合いの誠之助さんの
意外にも壮絶な生い立ちに波乱万丈な幼少期と
彼を育てて最後まで愛してくれた養母との生活と
回想録を追ってみようと思います。

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中島誠之助の生い立ち~記憶に無い両親の死

現在80歳の中島誠之助さんは1歳と1ヶ月の時
両親を肺炎によって相次いで亡くされたそうです。

現在では肺炎といったらよほど死に直結する人が
少ない昭和初期では風邪薬の特効薬となるペニュシュリン
が開発されていませんでした。

このため当時は若くても少しの風邪で拗らせ肺炎と
なり死へと至った事は珍しくもなく今より当然ながら
平均寿命も極端に短い時代だったのです。

とは言え、相次いで1歳という幼少に実の両親を
亡くすのは、ひいき目に見ても強運とは言い難い
環境と人生の始まりだったのではないでしょうか。

その為両親の記憶など子供である中島誠之助さんには
全く記憶に無く、そして、よもや乳飲み子を残して
死ぬとは思っていなかった両親からの形見は父親の
着ていた着物1枚だけだったそうです。

心に残るモノは何もなかったそうです。

無理もありません1歳の時の記憶がある子供など
あるはずが無いのですから・・・

中島誠之助の生い立ち~養母との出会い

では、当然乳飲み子だった1歳1ヶ月の中島誠之助
さんをその後育てたのは誰だったのか?

それこそが中島さんと全く血のつながらない遠い親戚
に当たる家に養子に出され、その先で面倒を見てくれる
事になったのが養母となる女性だったのです。

その女性は当時の横浜の花柳界で1番の売れっ子芸者
だったそうです。

中島さんの記憶を辿れば、その養母に1歳1ヶ月から
育ててもらった中島さんの回想録では、これ以上無い
といった程に溺愛して育ててもらったとの事。

また、現在の中島さんの古美術鑑定士という職業を
考え見ても通常よりはるかに美意識の高さや独特の
美的感覚を持ち合わせた人物だろうことを考慮しても
そんな中島さん曰く、当時の養母が仕舞いを踊っている
姿は、まるで鶴のように見え

『それはそれは美しいおかあちゃまだった』
話す程美しい女性だったそうです。

でも後に知る事になるだろう事実を考慮してか
彼女は決して中島さんに自身の事を

『お母さん』とは呼ばせなかったそうです。

8歳まで彼女から実の両親の事を聞くまで
養母を実の母親だと疑わず育ったそうです。

そしてその幼い年齢で養母が実の母親出ないという
ある種衝撃的な事実を知ってもショックではなかった
と発言されています。

そしてその理由を
『養母が自分をとても愛しているのが分かっていたから』
8歳の中島誠之助さんが信じて疑わない程の愛情を
持って育ててくれていたのでしょう。

全くショックはかなったそうです。

中島誠之助の養母との別れ

花柳界の花でもあり売れっ子でとても美しく
彼の自慢だった養母との別れはその後突然やってきます。

時代の流れで戦争が開始された日本では各地で
アメリカ軍からの起爆機の攻撃され、田舎は
ともかく東京や中島さんら養母の暮らす横浜や
養母らが生活の拠点となっていた花街一体も焼け野原
になってしまいます。

これらのアメリカ軍の攻撃で生活が一変したり
事業が悪化したりした人がたくさんいたのは
想像にたやすいですが当時養母の旦那となっていた
絹糸業の紳士もこの敗戦と同時に亡くなりました。

そんな状況で食べられなくなり生活の為養母が
始めたのが叔父の別荘に中島さんを預けてアメリカ兵
相手に当時でいう所のパンパン(売春婦)を始め
生活の面倒を見てくれたというのです。

幼心に周囲の人間が養母のその生業を話しているのを
聞いて分かったと言います。

でも幾ら悪く言われても
「そんな事までして自分を養ってくれている」そう思える
程養母からの愛情をたっぷり感じて育っていた中島誠之助さん。

でも彼はわずかそれから2年後の10歳にしてそんな
生活に見切りを付ける決意をするのです。

当時預けられていた叔父(骨董商)を営んでいた叔父
について行くことを決意。

この10歳当時の判断がその後長きにわたる養母との
最晩年までの決裂になるとはつゆ知らず、彼は当時の
事を回想してこういいます。

骨董商を営んでいる叔父が別荘を売る事になり、その別荘から
叔父の家に行く事になった時現在に続く自らの将来を決意
したかのように叔父の家について行くことを決意した。

『その時に私は養母を捨てたのです。』

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中島誠之助の養母との再会と愛が本当の親子以上

その後叔父に生活の全てを面倒見てもらい、養母の
ような愛情を持って育ててもらうと言う状態では
なかったものの、確実に骨董商へとなるべく厳しい
修行を叔父から学んで昭和51年に自らの店を持つまでに
成長するのです。

骨董商としても知られる存在となり、マスコミにも出演
する存在となった時、美術家の一人から、養母を思わせる
老人の存在が中島さんの作品集や新聞記事を収集している~

この事実を聞いて老人ホームを訪ねたと言います。

出会った時の養母は80歳を過ぎていたそうです。

最初『知らない。私ではない』としらを切る養母に
中島誠之助さんは、どこか確信めいて養母だと感じて
いたのでしょう。

『今の自分は商売も成功して結婚もしてお金もあるし、何の不自由もしていない』

こう切々と養母に話した所養母はようやくその存在を
認めたのだそうです。

自分が認める事で有名になった過去の我が子に
迷惑を掛けるのではないか~

この気持ちから頑なに自らの存在を認めようと
しなかった養母。

本当に中島さんを愛していたからこそ何十年ぶりに再会
出来て嬉しいだろうに否定した養母の芯からの気持ちを
考えると感動さえお覚えてしまう実話ですね。

その後養母が無くなる2年後まで度々中島さんは
その養護施設を訪ね養母との交流が続きましたが
再会から2年後養母が亡くなった後、養母の遺品から

自分が責任をもって最後まで中島さんを育てる事が出来なかった事。

それらの懺悔の気持ちがとても丁寧な字でノートに書き綴られて
いたそうです・・・

素敵な女性だったのが良く分かるエピソードですね。

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おわりに

いかにもその生業や見た目から裕福な家庭で悠々自適に育てられた家庭の息子さんだと思えてしまう中島誠之助さんの生い立ちは数奇な運命で短命だった両親との別れとその後短くも確かな愛情を持って育ててくれた美しい養母の存在があってこそだったのですね。晩年再会できた事がまさに運命的なめぐり合わせを感じざる得ない養母との関係でしたが、叔父の元で現在の地位を掴むまでの確かな実績を古美術鑑定家としてここまでの実績を作ってこれたのはまさに養母からの愛情を受けられたからこそ~なのかもしれませんね。益々のご活躍を期待したいと思います。

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