中江滋樹の生い立ち~希代の相場師の火事の最期と息子や家族の今

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中江滋樹アイキャッチ

1970年代のバブル期からバブル崩壊前の時代に「兜町の風雲児」と呼ばれた天才的投資家の中江滋樹氏。幼少の頃から図抜けた存在で株を始めた彼はバブルの狂乱の中一世を風靡した人物です。

アイドル倉田まり子との愛人関係や芸能界、政財界でも引く手数多だった中江滋樹の最後は、巨額の詐欺事件「投資ジャーナル事件」を起こし逮捕される結末に。

希代の相場師中江滋樹の生い立ちから相場師としての成り上がり、そして短くも儚く転落していった壮絶な晩年とその家族関係まで追ってみようと思います。

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中江滋樹プロフィール

名前:中江滋樹(なかえしげき)
出身地:滋賀県近江八幡市
生年月日:1954年1月31日
没年:2020年2月20日66歳没
最終学歴:滋賀県立彦根東高等学校
出身大学:神戸大学経済学部(中退)

中江滋樹の生い立ち~相場師の片鱗

中江滋樹は、滋賀県近江八幡市に生まれ、父親は証券会社の営業マンをする両親と兄克己の4人家族に誕生します。

この兄克己も後に父の跡を追い、証券会社で勤務していたという事からも証券会社に勤務する父親が、中江家の兄弟に強い影響を与えていたのは間違いないようです。

親から影響を受けるのはある程度納得いくものの、中江の場合は環境と遺伝レベルで頭もよかったのでしょう。株式投資のデビューは小学生から。

子供時代から自身の誕生日のご馳走を要らないからその代わりにお金をくれと請求して株に投資するレベルの子供だったと言います。

確実に株式投資を始めたのは小学5年生にして日活株を1000株購入し1万円を儲けて居いたのだとか、中学時代にはチャートを読める実力を身に付ける程株の世界にドップリとハマります。

そんな調子から地元滋賀でも進学校と言われた滋賀県立東高等学校時代には、授業中にラジオを持ち込み株価をチェックする徹底ぶり、そして休み時間に公衆電話で株の売買注文をしていたといい、まさに相場師の片鱗が早くから見えていたといえます。

当時の同級生の間でも、一目置かれる存在として異質な存在だったと言いますが高校生時代に、そこまでハマった要因の1つに当時高校生で既に株で1千万円以上の儲けを出していたのも大きく関係するでしょう。

現代の高校生でも1千万円は大金です(一般の大人でも)それが1954年生まれのバブル以前の高校生でさかのぼっても1970年前後の時代の1千万円と想像すると破格の大金。

逆に貨幣価値を現代に換算すると物価指数から計算すると、1971年に1万円だったものが1万×3.17=31700円との事なので単純計算しても当時の中江滋樹は高校生で3千万円以上の利益を株で得ていた計算になります。

高校2年では既に信用取引もしていた程の株への入れ込みようで、授業中でも構わずラジオを持ち込み夢中になる訳ですよね。

肝心の勉強の方も当然良かったようで高3で全国模試の数学で3位の実力。中江の高校同級生には東大に進んだ人も居る程の進学校だったようです。

そんな中江を見て教師まで株のアドバイスを受けていたというレベルだから、当時から如何に異端児的な存在だったのかが分かりますね。

中江滋樹木の生い立ち~本格的な相場師へ

冒頭で紹介した通り、高3での全国模試(数学)で全国3位を取れるレベルの頭脳を持ち、同級生には東大入りする程の進学校卒の中江滋樹ですが本人の頭の中は、この当時から最期まで株の事しかありません。

株には常軌を規した没頭ぶりでどんどんその実力と才能を発揮した中江ですが、大学受験にはその情熱はなかったのでしょう。

一旦は神戸大学経営学部に入学するも、あまりに株が儲かる現実からバカバカしくなり直ぐに大学を中退。高校時代から黒板書きのアルバイトで出入りしていた名古屋の「三愛経済研究所」の入所を選ぶのです。

父親の仕事柄、当然株に興味を示す家庭環境であったことは明白ですが、中江は優秀であり東大入りを却下して相場師を目指したといいます。

大学に進まず愛知県の投資関連会社の「三愛経済研究所」に入社、3年後独立し20代前半で株の動向を予測し、会員に向けレポートで伝える会社を設立。

彼のレポートが良く当たると評判になり大阪で有名になります。

その後3年で独立、更には東京へと上京し20代半ばで「投資ジャーナル」社を設立、証券業界ですぐに才能を開花し、本格的な相場士として投資顧問業として証券会社へと華々しい活躍の場を選ぶのです。

中江滋樹の兜町の風雲児時代の伝説

昭和から平成に向かい、バブルがはじける前の日本で、投資家・相場師として巨万の富を築いた中江滋樹の兜町の風雲児時代の伝説は有名です。

中江は、株式市場を的確に見通すことができる「若き相場師」として持ち上げられ、最盛期には200近くの関連会社を抱えていたといいます。

数々の証券会社が集まる兜町では「風雲児」と呼ばれ、中江が手掛ける株は中江の頭文字からN銘柄と呼び注目を集めるほどに。

全国大手紙では「顧客3000人、運用する資金は数百億円」と報じられ、多大な個人投資家を集め、中江は社員からもその見事な経営手腕を評価されていました。

政治家や財界人、芸能人らとの派手な交遊で常に話題を振りまいていた姿はバブルそのものだったといえます。

“中江滋樹は、20代で何十億と稼いでいたといい、その生活ぶりも凄く、「(会社の)金庫の中に入っている現金をわしづかみにして、紙袋に毎日1千万入れて、銀座に行ってたよ」(NHK事件記者取材note)”

まさにバブル絶頂期の中江の兜町での活躍ぶりは、当時の生活ぶりからも明確で当時の毎月の飲み代飯代は2億くらいで当時の自分を振り返って、中江自身も「もう金銭感覚はむちゃくちゃだった。」と語るほどの豪遊ぶりでした。

そんな折に出会った当時売れっ子歌手(倉田まりこ)にも貸した積もりで自宅の新築資金として7,000万円を提供、それがスキャンダルとなり当時26歳だった倉田まりこは芸能界引退へと追い込まれます。

飛ぶ鳥を落とす勢いの兜町での中江の活躍で、政財界や実業家など名だたる人物と知り合い、顔を売った中江ですが、そうして広げた人脈から噂が噂を呼び兜町の相場士としてどんどん政治家が中江の元に集まるようになります。

それもそのはず、そうして自身に集るようになった政治家に、名士変わりと言い500万円の現金を渡していたのです。

ある時は中江の事務所で、ある時はホテルのロビーやレストランでも、何て事ないと言わんばかりに名士変わりに現金500万円を提示する中江滋樹にどんどん人がたかるのは当然の成り行きでした。

しかもその数200人で中江曰くそうしてバラまいた金は「10億はある」とのこと。伝説の風雲児と呼ばれる由縁なのでしょう。

中江は演じていたのでしょうまさに希代の相場士、「兜町の風雲児」なる成功者がかような豪快な男で完全なる成功者だと言う様を一番分かりやすい金という武器を使って証明したのでしょう。

有力者や未来の人脈に繋がりそうだとみるとお座敷ゲームなど行い、豪快に100万200万の札束をばら撒くような豪快さを見せ如何に自分が成功者かを演出します。

まさに金が金を呼び人が人を呼ぶ、そう中江滋樹や兜町の風雲児たる間は、誰もが中江が演じる豪放磊落な兜町の成功者に会いたがったのです。

そして中江も演技が可能な限り兜町の超勝ち組を役者の如く身銭を切って演じていました。

文字通り大金をばらまいて、ただこの後の中江の転落と当時に蜘蛛の子を散らすように誰もが中江滋樹から一線を引く事になるのですが…

残酷な程に分かりやすい態度でキッパリと、金も勢いも権力も無くした中江滋樹から政治家も家族も手を引いていくのです。

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中江滋樹は仕手戦で成功し仕手戦で失敗した

小学5年生から1万の利益を積み上げ、高校時代には1千万円を超える利益を株で出し、株にどんどん魅了された中江滋樹は当然相場士としての実力や才能があったのは明白です。

ただ「投資ジャーナル」を設立してバブルを謳歌し兜町の風雲児と呼ばれこの世の春を謳歌していた頃、同業者らは中江滋樹の相場士としての実力を実に冷めた目で見ていたようです。

その理由は中江自身が「投資ジャーナル」で100人以上の従業員を抱え、大きく宣伝されたキャッチコピーは「顧客3000人、運用する資金は数百億円」と言われ栄華を極めたのは一時の事。

株の世界で良く聞く「仕手戦」が中江の手法だったと言われるように、相場を予想したり読むよりも自身の評判を信じた投資家たちを集めて巨額の資金を集め、狙う株の吊り上げをする「仕手戦」が得意だったと言われています。

稀代の相場士中江滋樹の評判が評判を呼び金はいくらでも集まる、その大金を元手として上がりそうな株を一気に大量買いする。そして一旦挙げた株をあげるだけ上げたら売り抜けるように一気に売る。

こうした一連の流れを仕手戦と言うが現代よりも規制が厳しくなかった1970年代後半から80年バブル時代には、この仕手戦が可能でした。

実際に巨額資金を手にしたとされる1983年の青木建設の仕手戦では8月当時200円台だった青木建設の株を、上がる上がると言いまくり宣伝しまくり投資家に購入を押した結果9月には1千100円の暴騰を見せる。

この青木建設の弱1ヵ月余りの仕手戦で中江の元に転がり込んだ大金は85億だったと言います。

この大きな仕手戦での勝ち上がりに勢いを付けた中江は自分の仕手戦(やり方)に更なる自信を持ったのかもしれません。

「投資ジャーナル」起業から2年目が自身もそして会社もピークだったという中江の仕手戦含む、金銭感覚はどんぶり勘定になっていきました。

中江滋樹の頂点からの大転落

生き馬の目を抜く兜町での活躍ぶりは、希代の相場師の名をほしいままにした中江の頂点からの転落もまた、彼が関与した「投資ジャーナル事件」がきっかけでした。

中江は、1978年に設立した投資会社「投資ジャーナル」で投資関連雑誌を続々と創刊し、「兜町の風雲児」「希代の相場師」などともてはやされましたが、「ツーバイツー理論」を華掲げ、会員から巨額の金を集めたことが問題に。

ツーバイツー理論とは、2割のもうけを10回続ければ元手が2倍になるというもので、これを信じた投資家約7800人から総額約584億円を集めたといいます。

昭和59年、30歳になった中江は大きな勝負に挑み、ある化学メーカーの株に狙いをつけて株価が上がると分析し、投資家からそれまで以上に多額の資金を集め、これまでのように仕手戦に挑もうとしていました。

その頃には会員は3万人、学生の頃より抜きんでて数学が得意だった中江が、どんぶり勘定なりに3万人の会員から集めた預り金と儲けを計算すると全く赤字の状態だったことに気が付きます。

しかもその赤字の金額は巨額の10億にも上る赤字、バブルに興じて「仕手戦」を演出し派手に飲み歩き、名刺代わりに500万を総勢200人に差し出す中江滋樹に幹部連中もやってられるかと感じていたのでしょうか。

どこか中江のそうした異端な行動に真面目について行くのにバカバカしいと感じる幹部が居ても可笑しくありません。

案の定、信用しきっていた幹部が会社の運営費を誤魔化し抜いていた事に気が付いたと言います。

会員からの預かり金を全て返済しても5億のプラスと計算していた中江がプラス5億のつもりがマイナス10億だったと言います。

それでもどんどん金の集まる所に人が集まるのは古今東西、止まらない会員に今更、投資家たちの上がりが合わないでは許されません。

マイナス10億の赤字を埋める為にも更なる宣伝費や広告として毎月2億つぎこんで、更に会員を募り、大金を売り抜けるしか現状を回避する手立てがなくなった中江は引くに引けない状態となり、どんどん行動はエスカレート。

集めに集めた数百億のお金で化学メーカーの株を上がると見込んで、勝負を賭けようとしたが中江の読みが外れたのか株は上がらず仕舞い。

伸びない株に対して、の風評被害がではじめます。「中江の扱う株は危険だ」という噂が流れ、しばらくすると買っていた株が軒並み暴落。

集めた数百億円もの金を顧客に返ぜず、翌年には顧客をだまし違法に資金を集めたとして詐欺の疑いで、1985年6月警視庁に逮捕されました。

中江は裁判で懲役6年の実刑が出て服役、1992年10月に仮釈放となり出所しますがその後は表に出ることはなく、滋賀県の実家に戻っていたようです。

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中江滋樹の奇行と晩年

最後の「投資ジャーナル」の顧客には暴力団からの多額(数十億)の資金もあったため、返済できない以上表舞台で活動する事が不可能だった中江は出所後は仲間からの資金提供1億で愛人と海外逃亡します。

そして恐らくは全ての資金が尽きた頃、彼を受け入れてくれる先は故郷の滋賀県近江八幡市しかなかったのでしょう。故郷に帰り兜町でもその存在を誰もが忘れ、死亡説まで浮上。

あれほど彼の持つ金に群がった有名人や家族や女や仲間が誰も居なくなった事で精神のバランスを崩したのでしょう。

当時まだ健在だった実母が2004年12月に精神病院に1ヵ月ほど入院させた事もあったそうです。そうした状況が好転する事もなく中江滋樹は地元近江八幡市でもトラブルメーカーだったとか。

飼い犬を巡って近所住民とトラブルを起こしたり、2006年には滋賀県の自宅1階に灯油のようなものをまき、マッチで火をつけたとして放火未遂の容疑で逮捕されます。

放火未遂については、「心身耗弱」として起訴猶予処分となりますが、当時から心身に不調がみられたようです。

地元にも身の置き場がなくなってしまった中江が向かった先は、やっぱり東京だったのでしょう。都内近郊を転々としながらも最後は東京都葛飾区の48000円のアパートでした。

2012年頃から終の棲家として身を寄せた、東京葛飾区の6畳一間のアパートで住んでいましたが、そこでも一人暮らしの小さな部屋で奇行の様子があったようです。

「独り暮らしなのに毎晩の怒鳴り声、酔っぱらっては何かをしゃべっている」…

この頃には体調も崩れていた中江はオムツを必要とするほど衰弱しながら独り小さなアパートで暮らしていました。

そんな中の訃報が2020年2月20日、一人暮らしの中江の部屋が火事になり、遺体で発見されています。66歳でした。

事件性はなく、寝タバコによる火事とされており、兜町の風雲児とうたわれた中江滋樹の最期は焼死だったと話題になりました。

しかも驚くことに、中江の亡くなったアパートの焦げた布団のまわりに、株関係の本やノートがあったといいます。

“ノートをそっとめくってみると、そこには相場に対する心構えや自らの考えがびっしりと記されていた。
さらに、最近の株式相場の推移を記した手書きのチャートも見つかった。この頃は、アメリカのトランプ大統領の過激な政策や新型コロナウイルスのまん延で、世界の金融市場が不安定になり、株の値段は乱高下していた時期だった。”(NHK事件記者取材note)

彼は病に侵され独り薄暗く汚れたアパートにたたずみながらも株での再起を最後の時まで諦めてなかったのでしょう。

最期まで株一筋のどうしようもない男だった中江ですが、株の世界で生きることこそが彼の生きがいであったことは間違いないでしょう。

中江滋樹の息子や家族の今

中江滋樹の息子や家族の今が気になりますね。

中江滋樹が兜町の風雲児といわれたのは、彼が30歳頃のことで、女遊びも激しく愛人は10人くらいいたとか。

中江は結婚歴があり、過去に離婚していたことがわかっていますが、元妻との間に息子や娘が5人おり、晩年は家族と連絡を取らなかったそうです。

元妻は加代子といい、中江と同い年だったといわれていますが、前夫との間に1人子供があったそうで離婚後は引き取っており、中江の実子は4人のようです。

彼の結婚や離婚の時期など詳細は不明ですが、1985年の中江の詐欺での逮捕以来、家族と絶縁状態で、中江の残された家族らについては見えていないようです。

そうした中江滋樹の豪快な遊び方を見て大金に吸い付けられるように、有名人や超名人みんなが中江滋樹に会いたがりほぼ全ての人が中江曰く彼自身ではなく彼が稼ぐ金を求めて剥ぎ取っていったと言います。

「金は人を狂わせる」

おわりに

兜町の風雲児、希代の相場師とうたわれた中江滋樹の頂点からの転落は、投資ジャーナル事件であり、違法に資金を集めた詐欺の疑いで逮捕、その後服役し、驚くことに最期は火事で一人孤独な死を迎えています。
中江は結婚歴があり、息子や娘があったといわれていますが、逮捕後家族とは絶縁していたことがわかります。相場師になるために生まれてきたような中江滋樹の人生は、相場師として終焉を迎えたといえるでしょう。


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