ヴァイオリニストの生い立ち

渡辺茂夫の生い立ち~神童の悲運は自殺では無く嫉妬による暴漢の仕業

渡辺茂夫アイキャッチ ヴァイオリニストの生い立ち

悲劇の神童と呼ばれた天才ヴァイオリニスト渡辺茂夫。

今では知る人も少ないかもしれませんが、敗戦後間もない日本で神童と呼ばれ、若くからバイオリンを奏で多くの聴衆を感動させた人物です。

幼い頃からの厳しい英才教育でバイオリン漬けの日々海外への留学と努力の上で天才と呼ばれるようになった渡辺茂夫は、ある時パタリとその姿を消します。

そしてあまりにも悲しく辛い生涯を過ごすこととなります。

今回は渡辺茂夫の輝かしい過去に家族関係、世間を
揺るがした自殺未遂の真相など、悲劇の幕切れに
迫ってみます。

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渡辺茂夫プロフィール

氏名:渡辺茂夫(わたなべ しげお)
職業:ヴァイオリニスト、作曲家
生年月日:昭和16年(1941年)6月26日享年(58歳)
出生地:東京都
学歴:ジュリアード音楽院(昭和33年 中退)

以下、渡辺茂夫の生涯の出来事を簡単にまとめてみました。

昭和23年(1948年)
7歳で初リサイタル(翌年以降も毎年1回コンサート)

昭和24年(1949年)
映画「異国の丘」にヴァイオリンを弾く少年役で出演
この頃から創作面にも関心を示し、作曲活動や詩作にも着手

小学校の最終年次にヴァイオリン協奏曲、オペラ
ヴァイオリン・ソナタを作曲

昭和29年(1954年)
暁星中学校に進学
東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏

5月、帝国ホテルでハイフェッツに演奏を披露

昭和30年(1955年)
14歳、ジュリアード音楽院に無試験入学が許可され渡米
ベートーヴェンの協奏曲を演奏し、地元紙などで絶賛される

イヴァン・ガラミアンに師事、同居

昭和31年(1956年)
ニューリンカーンのハイスクールに通学
音楽家が集まったプライベート演奏会で世界一と絶賛される

ガラミアン宅を出てホームステイ先を変更

昭和32年(1957年)
2月、情緒不安定を訴え精神科に通院
春からホームステイ先を変更

9月、ジュリアード音楽院に再入学する
11月、睡眠薬を大量に服用後、脳障害が残る

平成11年(1999年)
8月15日、急性呼吸不全により58歳で永眠

幼い頃からヴァイオリンに触れ、14歳で
アメリカへ留学しています。

この留学が、渡辺茂夫の人生を狂わせました。

こんなに短い期間で、彼を苦しめることに
なったのは一体何なのか……。

生い立ちから、順を追って詳しく見てみましょう。

渡辺茂夫の生い立ち~両親の離婚と養父との出会い

昭和16年(1941年)6月26日、まだ戦時色も濃厚な日々の中、東京で音楽家一家のもとに生まれます。

渡辺茂夫の母・鈴木満枝はヴァイオリニストで、母方の叔父・渡辺季彦もヴァイオリニストでした。

小さい頃から毎日のように、ふたりの練習に励む姿を見ていました。

渡辺茂夫がヴァイオリンを手にしたのは4歳の頃で渡辺季彦の経営していた音楽教室
「渡辺ヴァイオリン・スタジオ」で学び始めます。

翌年、昭和22年(1947年)に両親の離婚に伴い、茂夫の才能を見込んだ渡辺季彦は彼を養子とします。

渡辺季彦は自身の経験から、音楽の教育は幼い頃から徹底して行うべき、という考えを持っており、茂夫にもかなりスパルタだったといいます。

当時は他の子と比べると楽譜の覚えは悪く不器用だったそうです。

毎日7~8時間とヴァイオリンの練習をさせ、ヴァイオリンの稽古のあとはピアノの稽古、休む間もなく、夏休みでも関係ありませんでした。

その甲斐もあり、養父の指導のもとで完璧なテクニックを身に着けていきます。

7歳の頃、ヴァイオリニストの巌本真理にその才能を絶賛され、はじめてのリサイタルを行っています。

当時の日本には渡辺茂夫のような、幼いながら実力のある音楽家はあまりおらず、まさしく神童と呼ばれるべき存在でした。

また、翌年には映画「異国の丘」に、ヴァイオリンを弾く少年の役として出演しています。
神童
作中ではメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」などを披露しています。

同時期に、養父の勧めで作曲もはじめるようになります。

石桁眞禮生(作曲家)に師事しながら、小学6年生の時には、すでに技術も表現力もほぼ完成されていました。

当時作曲したヴァイオリン協奏曲やオペラ、ヴァイオリン・ソナタはバイエルン出身の有名な作曲家クラウス・プリングスハイムによって高く評価されています。

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渡辺茂夫の神童の悲運の始まり

昭和29年(1954年)、暁星中学校に進学します。

同年、イギリスの名指揮者マルコム・サージェントの指揮で、東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏。

来日したダヴィッド・オイストラフを訪ねて演奏を行っています。

5月、養父の奔走により、帝国ホテルでヤッシャハイフェッツと面会し演奏を披露します。

天才
ハイフェッツは20世紀と代表する世界的なヴァイオリニスト。

ハイフェッツは、渡辺茂夫の演奏に感動し

「百年に一人の天才」と評されます。

あのハイフェッツにそこまで言わしめるのですから、年齢にはそぐわない相当な演奏力があったのがわかります。

この出会いこそが、渡辺茂夫の悲運の始まりとも言えます。

翌月、ハイフェッツからの招待で渡米が決まります。

昭和30年(1955年)3月、ハイフェッツの推薦で、ニューヨークのジュリアード音楽院への無試験入学が許可されました。

当時最高峰の音楽学校に、14歳、最年少の特待生という厚待遇です。

養父や母親は、アメリカに行くのに積極的ではなかったものの、当時新聞やニュースで彼の話題はひとり歩きしており、神童と持ち上げられ、行かざるを得なかった部分もあったのでしょう。

そうして、アメリカ軍属、朝日新聞社などから経済的支援を受け、7月に渡米します。

渡米後、モーリス・アブラヴァネルの指揮で、ベートーヴェンの協奏曲を演奏するなどしてサンタバーバラ市の地元紙で絶賛されたり、講演会の
告別演奏会などでも自作のヴァイオリン・ソナタを披露するなど、早くも脚光を浴びます。

ジュリアード音楽院では、イヴァン・ガラミアンに師事することになり、同居し始めます。

先述しましたが、この時すでに音楽家としての渡辺茂夫は完成されていて、この留学は日本にいなかった共演できるレベルの音楽家との出会いや
世界の舞台に立つためでした。

しかし、渡辺茂夫とガラミアンのヴァイオリン奏法はまったく別物で、これまで培ってきたものを崩されてしまいます。

強引に奏法を変えられ、ガラミアンとの人間関係にも悩み始めます。

日本でも小さい頃からヴァイオリン漬けで、同年代の友人達と遊ぶこともなく、まともな人間関係がわからないまま言葉の通じないアメリカに来た事も悩みの一つになります。

思春期で多感な時期にたったひとり、見知らぬ海外の土地で人間関係に悩まされるというのは辛い環境です。

当時、渡辺茂夫が親に宛てた手紙には

「何も面白いことがない。まるで暗い穴の中にいるようだ」

と書かれていました。

昭和31年(1956年)には、ニューリンカーンのハイスクールに通学。

この頃から日本や日本語を嫌ったとされていて、親の元へ送っていた手紙も途絶えがちになります。

養父は心配して、渡辺茂夫を一度帰国させようとしますが叶わず終わります。

代わりに、渡辺茂夫の演奏を録音したテープが送られてきますが、養父はそれを聴いてガッカリします。

「生活の不幸が出ているんです。茂夫は幸福ではないなと思いました。茂夫はアメリカで何も教わることがなく、何も加えられていなかった」

そして昭和32年(1957年)、留学からわずか2年と経たないうちに情緒不安定になった渡辺茂夫は精神科に通院するようになります。

9月にはジュリアード音楽院に再入学するも、今度は乏しい報酬と支援金で生活苦になります。

11月、人間嫌いと疎外感が募るようになった彼は未成年は購入禁止とされていた睡眠薬をおよそ100錠と大量に服用し、自殺を図ります。
自殺

意識不明の重体となり、すぐに日本にいる家族に危篤を告げる電報が届きますが、何とか一命をとりとめます。

しかし不幸なことに、脳には生涯が残り、意識が回復する見込みはありませんでした。

結局、昭和33年(1958年)1月、何を得るでもなく病気を抱えて日本に帰ることになりました。

そしてその後、40年以上に渡って在宅療養が続けられました。

渡辺茂夫は自殺では無く暴漢による仕業

悲しくショッキングな出来事ですが、原因はニューヨークでの孤独や、人間関係の悩みから睡眠薬に手を出してしまった事と報道されています。

しかし、それは捏造だという声があります。

誰でもない、渡辺茂夫をそばで見守り続けてきた養父・渡辺季彦の声です。

あるテレビ番組に出演した時のことです。

傷跡
渡辺茂夫の後頭部には縦に、横にとひどい傷跡があり当たり前ですが睡眠薬を飲んで出来るものではありません。

開頭手術もしていませんでした。

40年も経ってこんなに大きな傷が残ることは絶対にない、と渡辺季彦は力説します。

「だってこれは、はっきりしているんですよ。日本の新聞記者が取材でニューヨークに行って分かったことは茂夫は無頼漢に頭部を殴られたんだ、と。いくら悩んでも茂夫がどうして自殺なんかするんですか。私は自殺などとされている茂夫が可哀想でいけないんです、これじゃ浮かばれないですよ」

また、ニューヨークの医学部に留学していた渡辺茂夫のファンでもあった若井一郎氏によると、

「脳の表面が破壊され、かろうじて喜怒哀楽はあるようだったがもう体が動かせず、麻痺が頻発していました」

とのことです。

睡眠薬で脳の表面が破壊されることはないのだそうです。

当時の日本がアメリカの奴隷のような状況だったために事件が捏造されたとのことです。

しかし後に、山本茂の著書「神童」においてアメリカ人による「謀殺未遂説」について、渡辺季彦は改めて「あれは自殺未遂にほかならない」と述べています。

また、この説とは別に、同じジュリアード音楽院にいたジュディという女の子に失恋をして自殺を図ったとする説もあります。

渡辺茂夫の渡米後後半の日記には度々ジュディの名前が出てきており、ジュディに逢った時、人生ではじめての幸せを感じた、と言うほど好いていました。

しかしジュディはまったく彼に関心がなかったようで渡辺茂夫を悩ませます。

ある時、ジュディに自分のことをどう思っているのかはっきりしてほしい、と手紙を書きます。

そしてオーケストラメンバーにその手紙を託すも、いくら待っても返事が来ないことに絶望します。

手紙を託されたメンバーがジュディに渡さなかっただけなのですが、これが彼の自殺未遂へと繋がったといいます。

日記には

「僕はもう疲れてしまった。何も考えないことにしよう」と書いてありました。

結局のところ何が正しかったのか判明しておらず真相は今も闇の中です。

どちらにしても、渡辺茂夫の音源を聴いていると、アメリカへ行く必要がないものだというのがわかりますし、渡米したことで才能を萎ませてしまったのには変わりありません。

もしもアメリカに渡米しなかったら?

もしも、茂夫に寄り添って誰かが付いていたら?

もしも、茂夫の弱音を聞いた時直ぐに帰国などの対応を取っていたら?

タラればの後悔の念は、誰もが思う所でしょうが養父渡辺季彦以上に生涯を通してそれを想い続けた人は居ないでしょう・・・

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渡辺茂夫を最後まで看取った養父の最後

渡辺茂夫が日本に帰ってきてから、58歳で亡くなるまでの40年間、彼の介護にあたったのは
他でも無い彼を育てた養父の渡辺季彦でした。

それまで、息子に大いに期待していた自分を悔いて、彼の介護に余生を預ける決心をしたのではないでしょうか?

渡辺茂夫の当時の演奏や肉声を収録したCDを制作したのも渡辺季彦や、門下生などの尽力によるものでした。

神童CD

「神童 <幻のヴァイオリニスト>」は大きな反響を呼び「驚きももの木20世紀」など複数のドキュメンタリー番組が制作され、彼の悲劇的な半生と、半ば植物状態の姿も紹介されました。


当時の音源だけでも聞いてみて下さい!

その内容は、渡辺季彦が渡辺茂夫を風呂に入れたり食事をさせたり、あらゆる事を献身的に行っているものでした。

自分の足の甲に渡辺茂夫の足を乗せ、後ろ抱きにして共に歩くシーンなどもありました。

番組放送時、渡辺茂夫は55歳、渡辺季彦は80代でしたが、全く弱音を吐くこともなく気丈な姿を見せました。

渡辺季彦が飾り棚からヴァイオリンを出すと、不思議なことに茂夫はニコニコと笑みを返します。

数少ない反応だそうで、これには胸を打たれます。

そして平成11年(1999年)8月15日、渡辺茂夫は急性呼吸不全により58歳で永眠します。

彼の死後も茂夫に関係するCDはいくつか発売されています。

養父・渡辺季彦が亡くなったのは、平成24年(2012年)享年103歳でした。

渡辺茂夫をアメリカへ送り出し、失意の帰国と、悲劇のきっかけを作ってしまったのは、彼にヴァイオリンを教えた渡辺季彦という人物でもあります。

才能があったばかりに、そして、才能を最大限に伸ばせる術があったばかりに、愛べき息子渡辺茂夫を壊してしまったと最後まで息子に寄り添って生涯を捧げた養父、渡辺季彦親子の生涯はようやく幕を閉じるのです。

亡くなるまで、誰よりもその事を重く背負っていたのではないでしょうか?

切なくも儚いひと時の夢のように、息子渡辺茂夫の有り余る才能を伸ばそうとしただけなのに・・・

人より秀でた才能を持ったばなりに悲運の生涯を生きた、渡辺茂夫親子の生い立ちと生涯こそが人生の儚さなのかもしれません。

人は常に崖っぷちを歩いている。

そう感じているか?そうじゃないかだけの話で、表裏一体なのかもしれません。

おわりに

もしも、アメリカへ渡ることなく日本でヴァイオリンを弾いていれば、今頃世界トップレベルのヴァイオリニストになっていたでしょう。幼い頃の音源を聴いても、まるで大人のプロが演奏しているようです。
たったの16歳でこの才能が途絶えてしまい、人生の酸いも甘いも知らずに、人より秀でた才能を持ったばかりに悲しい結末になってしまいましたが、世に彼の演奏を残せただけでも安心できます。そして、どんな姿になろうと、最後まで茂夫に寄り添って愛してくれた養父の変わらぬ存在が晩年の茂夫をどれ程支えたか?渡辺茂夫は決して不幸ではなかった。
養父渡辺季彦の長寿を全うした最後を考えるとそう思わずにはいられません。


コメント

  1. あなたにLullaby より:

    前略
     たまたまです。この天才バイオリニストのことを知りました。そして自殺未遂の真相を知りたくてこのブログを読ませてもらいました。 なるほど彼が異国の地で暴行を受けたということが真相のようでしたが、それ以上の詳細は不明という感じでした。帰国後の養父の思いやいかにという感じがしましたが、103歳まで生きたということに後味、何等かの勝利感が残ったことに 救いを感じました。 渡辺茂男の作曲となる演奏を聴いたときに、その音楽の立派さ、早熟さに驚きました。彼はもっと知られていい人物だと思います。 せっかくなのでtwitterに載せておきます。 いいブログでした。ありがとうございました。

  2. あなたにLullaby より:

    すいません。茂夫でした。

  3. リバティ より:

    渡辺茂夫さんの存在と美しい音楽を知っていましたが最近『神童』を読みました。こちらのブログ内容は知らなかった外傷などのことが記載されていてよくまとめられた記事で共感しました。ただ2点訂正していただきたい点があります。この記事の後半、頭に負ったという下方にある、本『神童』で渡辺季彦さんが「あれは自殺未遂にほかならない」とした部分はありませんでした。最後まで暴漢説を信じている記述です。→他の個人のブログに著者の山本氏がコメンを寄せていて父季彦さんが謀殺されかかったと信じ自殺未遂説を認めませんでしたがあれは自殺未遂にほかならないとあり、山本氏の発言だと思います。本を刊行するにあたり関係者に取材されているようですが、肝心の身元引受人のジャパンソサエティーが社会性の乏しい自殺企図のある少年を一人で住まわせ、最後に茂夫さんが決意した帰国をなぜ阻んだのか謎だらけのままでした。こちらが紹介した精神科医がおおらかな女性だったらもっとちがうアプローチで治療法を選択できたかも、と思いましたし何とか助力で国際電話で何度か両親と話をさせてくれて互いの意思疎通ができていたら・・などと考えてしまいました。
    もうひとつはハイフェッツ氏は自身を神と言った発言があり、プライドの高い彼は茂夫さんを100年に一度の天才とは言わないだろうと思います。本の中では紹介してくれたルック夫人に25年来の感動だ、と伝えたとありました。しかし言葉にできなくともただならぬ非凡な才能があることを認識しているからこそ少し不正をしてでも(無試験)ここで早く勉強させたい、とすぐさまジュリアードへの入学を手配したこと。アメリカ行きさえなければ精神に混乱をきたすこともなく輝かしい未来があったはずなのに・・・と思いたいのですが、このアメリカ留学がすべての占いで凶、半身不随の卦がでていたことから彼の悲劇的運命は神様が与えたものだったのか、とすら思えてくるのです。

  4. 菊池善 より:

    何と悲しく切ない話でしょう。渡辺茂夫に限らず、超越した才能を持って生まれて来たのに、世の中で大活躍する機会が無かった、或いは才能を開花させる環境すら無かった超天才が大勢いるのではと思います。

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